2014年6月29日日曜日

暦物語/西尾維新

「暦物語」は、今までのメインストーリー、すなわち、阿良々木暦が吸血鬼と出会った4月から彼の大学受験日の3月までの間に起きた事件、「化物語」「傷物語」「偽物語」「猫物語」「傾物語」「囮物語」「鬼物語」「恋物語」「憑物語」という大きな物語の流れの間に、実はこんなエピソードがありました、という小さな作品を時系列に並べている構成になっていて、そういう意味では、この作品を読む前には、大体は、これらの前作を読んでおいたほうが納得がいくと思う。

こういった作品は、余談めいたスピンオフとか、番外編とか言って、本編より見劣りするものが多いが、この「暦物語」は、とても面白かった。

まず、推理小説仕立てになっているところが面白い。

一つ一つの作品の中で、学校怪談、都市伝説のような、怪異とは呼べるかどうか微妙な小さい不思議な事件が発生し、それを、阿良々木暦がワトソン役となり、忍野メメ、羽川翼、戦場ヶ原ひたぎ、果ては貝木泥舟までがホームズ役になって、謎解きをする。

例えば、学校の花壇にいつの間にかできた石像と祠、校舎の屋上に月一で供えられる花束、鬼の形相の模様が浮き出る公園の砂場、お風呂の水面に浮かぶ女性の顔、突如その存在が明らかになった老木、八人目の茶道部員など、ちょっとした不思議な話が出てくる。

これらを、現実的に、合理的に謎解きするという推理小説的な手法だけではなく、真正面からの解決を回避し、ある意味、大人の成熟した方法で騙すという手法が提示されているところが面白い。

老木、茶道部員での解決方法、貝木泥舟の風説流布の手法、パンデミック論、斧乃木余接の謎の探し物などは、おかしな話だが、読んでいて妙になるほどと感心してしまった。

2014年6月28日土曜日

福永武彦新生日記/序 池澤夏樹

作家 福永武彦が結核を患い、東京清瀬の療養所で過ごしていた時期の日記。

1949年1月1日から7月15日までの日記は、自殺を仄めかす暗い出だしで始まる。心が離れてしまった妻との関係、不安定な体調、その暗い境遇から逃れるかのように、福永の旺盛な知的活動が日々記録されている。

ラジオでクラシックを聴いたり、ギリシャ語を勉強したり、ヘミングウェイを読んだり。

特に、ヘミングウェイの「日はまた昇る」には感心したらしく、ノートには気に入った文章もメモされている。

It is awfully easy to be hard-boiled about everything in the daytime, but at night it is another thing.
(昼間はすべてにハードボイルドになるのはたやすいが、夜となると話は別だ)

お金はないが、自分で本を買ったり、誰かに頼んだり、借りたりして、暇なし読書をし、体調の良い日はコツコツと小説を書くのを続けていたようだ。

1951年12月10日から1953年3月3日までの日記では、病気の回復期にある福永武彦が、少しずつ、外の社会の接触を回復していくプロセスが描かれている。そして、妻 澄子とは別れ、福永の日記には、谷静子という女性と岩松貞子という女性に対する思いが描かれる。前者は福永の芸術的な感覚を理解できる女性で、後者は福永の面倒を甲斐甲斐しくみてくれる女性(結局、福永は貞子と再婚)。

ナツキ(池澤夏樹)に関する記述も所々見られる。北海道地震にギクッとしたり(実は夏樹は母に連れられ東京に来ていたが知らなかった)、小学就学児童のメンタルテストで品川区の中で一位になったことについて、「やさしい性質らしい」と述べていたり、澄子が池澤喬氏と同居したことで、ナツキに会えなくなることについて気落ちしている。

本の冒頭には、母 山下澄子(原條あき子)にやさしく見つめられる五歳の初々しい池澤夏樹の写真も写っており、失われた三人の家族の関係、その喪失感が伝わってくる。

そういった喪失感を乗り越えて、福永が小説家として本格的に活動していく過程を綴った日記を、池澤夏樹は、福永が好きで読んでいたダンテの「新生」への連想から、「新生日記」と名づけている。

この苦難を乗り越えた小説家としての父を、同業者として客観的に評価しているところが、この本の明るさを醸し出している。

2014年6月22日日曜日

福永武彦戦後日記/序 池澤夏樹

池澤春菜さんの「乙女の読書道」で、この本が紹介されていたので、読んでみた。

小説家 福永武彦氏の1945年から1947年にかけての日記である。

血縁的にみれば、福永武彦氏の長男が、池澤夏樹氏で、その娘が池澤春菜さんということになる。

そういうゴシップ的な要素を無視しても、この日記はかなり読み応えのある内容になっている。

終戦後の混乱期に、文学で身を立てようとしている二十七歳の青年がいる。しかし、彼には北海道の帯広に残した妻(詩人の原條あき子)と生まれたばかりの子供(夏樹氏)もいる。

戦後の物資が少ないことに加え、まだ、小説家としての実績のない福永の執筆生活は困窮する。
居候した親戚の家からも追い出されそうになる。

しかし、就職、食料の確保、金策に奔走しなければならないような生活でも、彼は仕事の計画を立て、東京で成功して、妻と息子を呼び一緒に生活することを夢みる。

やがて、妻が実家で暮らしずらくなってしまい、彼は無職のまま、帯広に帰るが、見つけた借家は火事になり、かろうじて親子三人で暮らせる三畳一間の部屋を借り、中学の英語教師の職を得る。

しかし、その生活も長くは続かず、福永は結核に侵され、療養生活に入る。
残された妻は先行きの見えない生活に精神を病み、夫を責め、自殺を仄めかすようになる。

(歴史にIfはないが、こんなにも生活が困難な時代でなければ、福永一家3人の運命はだいぶ違うものになっていたかもしれない。そして、池澤夏樹氏の文壇への登場の仕方も変わっていたのではないだろうか。)

貧しいながらも明日を夢みていた1945年は口語体で、徐々に生活に絶望の度合いが増しはじめてからは、文語体で、これらの出来事が事細かに連綿と日記として記されている。

戦後の交通事情(汽車で帯広から信濃追分まで3日!)、闇市、進駐軍、配給、停電、食生活、物価、友人からの借金、永井荷風がまだ現役で作品を発表していたこと、当時のインテリ達が考える天皇制の廃止等、戦後の混乱期の東京の様子が記録されているところも、資料的な価値が高い。

福永は、日記を書くことの意義をこう考えていたようだ。彼がいかに優れた小説家になろうと日々努力していたかが垣間見える。
作家にとって一日一日は貴重であり失われたものは帰らないが、日記は書くことのメチエを自分にためす点に効用があるのではない。
現実が一度しか生起せず、それを常に意識し、その一度を彼の眼から独自に眺めるために、小説家に日記は欠くべからざるものであるだろう。
日々の記録として価値があるのではない。小説家の現実と彼が如何に闘いまた如何に自己を豊にしたかにその効用があるのだ。
その日常が平凡でありその描写が簡潔であっても、その日記が詰まらなければ作家である小説家が詰まらないのだ。 

2014年6月14日土曜日

乙女の読書道/池澤春菜

池澤春菜さんの書評集「乙女の読書道」

結論から言うと、この人は自分のことを語れる文章の形を持っている。

正直なところ、彼女の取り上げた本のほとんど(SFファンタジーや児童書)は、自分の興味と重ならなかったが、彼女の活字中毒の話、タイに留学した際に、サン・テグジュベリの「人間の土地」をすり切れるまで読んだ話、古本屋で買う本の話なんかは、非常に共感できる部分があった。

ただ、私も人のことは言えないが、ちょっと取り上げている本のカテゴリーが偏りすぎているかも。

おっこれは、と思うタイトルがあると、父の夏樹さんの推薦だったり(笑)。
(正直に言っちゃうところは好感は持てる)

巻末には、夏樹さんとの対談の内容も収められているが、次のステップとして、書評の文章の量を倍にする訓練をしなさいとか、職業作家の娘へのアドバイスも面白い。

祖父、祖母、父の文学者としての血統ゆえ、色々とプレッシャーはあるのだろうが、頑張ってほしい。


2014年6月9日月曜日

NHKスペシャル ミラクルボディー サッカー・FIFAワールドカップ 第2回 スペイン代表 世界最強の"天才脳"

番組では、前回のワールドカップで優勝したスペイン代表のサッカーの強さの秘密に迫ったもので、興味深かった。

小柄な選手が、チキタカと呼ばれる速いパス回しで、相手選手を攪乱し、スペースを作り、得点を挙げる。長いロングボールで一気にゴールを狙うカウンターサッカー(先日のザンビア戦での青山からのパスと大久保のゴールが好例)とは対極に位置するものだ。

このスペイン代表のサッカーを牽引してきたのが、FCバルセロナ所属の身長170cmの二人の選手。

的確なパスでゲーム全体を操る司令塔のシャビ(Xavi)と、ゴール前でチャンスを作る創造的なプレーが得意な魔術師イニエスタ(Iniesta)。


ちなみに、このFCバルセロナでは、カンテラ(石切り場)と言われるジュニアユースの練習場で、チキタカを通し、ディフェンダーをかわすためには、次にどこにパスを回せばよいかを瞬時に判断する訓練が日々行われている。




番組では、二人の脳を調べていたが、シャビは、空間認識力に長けており、加えて、試合中は、過去のゲームの局面をデータベースのように蓄えている脳の部分が非常に活発に動くという。
そのデータに基づき的確なパスを瞬時に出す直観力。このような頭の使い方は、プロ棋士に似ているという。

一方、イニエスタは、限られた局面で複数のパターンを瞬間的に創造できる力が異常に高かった。

この二人の能力が相乗効果となって、スペインの強いサッカーを実現しているということだ。

翻って、日本のサッカーを見てみると、パスサッカーを目指しているように思うが、能力は及ばずともシャビに当たる選手は思い浮かぶが、ゴール前で予想外の動きをするイニエスタのような選手がいないのが実態なのでしょうね。

2014年6月8日日曜日

新々百人一首/丸谷才一

買った当初は読んでピンとこなかった本も、本棚の片隅にあって、数年後パラパラとページをめくると、こんなに面白かったのかと思うことがある。

丸谷才一の「新々百人一首」(1999年発行)も、買った当初は、読んでみても、どうにも王朝和歌という文学形式に興味が湧かなかったが、十五年経った今、こうして読んでみると、その面白さがひたひたと感じられるようになった。

小倉百人一首にならって、百首選ばれているが、新古今集の部立てに従って、
春・夏・秋・冬・賀・哀傷・旅・離別・恋・雑・釈経・神祇の配列になっている。

まだ、夏の部までしか読んでいないが、紀貫之が屏風歌(調度的装飾歌)の代表的作者であったとか、鳥の泪(なみだ)が、日本の和歌独特のイメージであるとか、夜が明ける前から鳴く春鳥とは、閨中における婦女愉悦の声を意味すること等は、知りませんでした。

それと、一首ごとに丸谷の解説が付いているのだが、これが、文明批評や歴史学のように読ませる内容になっている。

例えば、

絵はものいわぬ詩であり、詩はものいう絵であるという見解にもとづいて、詩人たちと画家たちは何世紀も仕事をして来た。画家は文学の主題をてがかりにして構図を定め、詩人は視覚芸術ならではのイメージを読者につきつけようとして苦心した。詩と絵画は姉妹芸術であった。とマリオ・プラーツが「記憶の女神ムネモシュネ」で指摘するのを見ると、われわれは妙に当惑する。…東洋の詩と絵画については、あまりにも当たり前の話だからである。…たとえば出入りの八百屋が中元にくれた団扇には、あやしげな蔬菜図のかたわらに不出来な発句が書きそえてあるのだ。われわれはイタリアの英文学者があっけにとられるような美的状況のなかで暮らしている。

といった文章や、

平 忠度(たいら ただのり)の歌が、「千載集」撰入の際に、何故、作者名を伏せられ、読み人しらずとされたのか、他の勅撰集での用例、他の研究者の見立て、千載集の成立時期、政治的背景等を踏まえ推測していくくだりは、まるで推理小説を読んでいるような気分になる。

2014年6月7日土曜日

日本文学全集/池澤夏樹個人編集 その2

池澤夏樹個人編集の日本文学全集は、全30巻を予定しているが、そのうち、12巻までが、明治時代の前、つまり、前近代ともいえる江戸時代から奈良時代まで遡って、作品を取り上げている。

しかも、その古典作品を、ただ載せても普通の人は読めないから、すべて翻訳する。
国文学者ではなく(ただし折口信夫を除く)、現代のわりとポピュラーな小説家たちによって(中には外国語学者や哲学者という異色な顔ぶれもあるが)。

この辺の事情を、編集者の池澤夏樹は、こう述べている。
今の日本はまちがいなく変革期である。島国であることは国民国家形成に有利に働いたが、世界ぜんたいで国民国家というシステムは衰退している。その時期に日本人とは何者であるかを問うのは意義のあることだろう。
その手がかりが文学。なぜならばわれわれは哲学よりも科学よりも神学よりも、文学に長けた民であったから。しかしこれはお勉強ではない。
権威ある文学の殿堂に参拝するのではなく、友人として恋人として隣人としての過去の人たちに会いに行く。
書かれた時の同時代の読者と同じ位置で読むために古典は現代の文章に訳す。当代の詩人・作家の手によってわれわれの普段の言葉づかいに移したものを用意する。
このような作品構成で編まれる文学全集は、おそらく、初めてのことではないかと思う。
大抵の日本文学全集では、ほとんど全てが明治以降の作品となっている。

それは、私たちが読む現代日本文学の主たる祖先は、明治維新以降にはじまる文学であり、更に、そのルーツは西洋文学であり、明治維新前の古典文学とは隔絶しているという文学史観に基づくものなのかもしれない。いわゆる私小説に代表される日本自然主義文学の意識といってもいい。

しかし、一方で、自分たちのルーツを日本の古典まで遡って探し求め、過去に裏づけられた、より多層的な表現を手に入れようとした小説家たちもいた。代表的な作家でいうと、森鴎外や永井荷風、谷崎潤一郎、石川淳、丸谷才一などで、いわゆる古典主義文学の流れだ。

今回の文学全集を編集する池澤夏樹の意識は、明らかに後者の方だろう。
つまり、現在の私たちのことば、考え方、生活のルーツは、712年の古事記に始まり現代にいたるまでの約1,300年近い歴史の堆積の中にあるのだという意識だ。

この全集が、現代の読者に、古典を苦労なく読ませることにより、当時の作者や読者(日本人)の気持ちや生活を知り、共感を覚え、日本人とは何者か、自分とは何者かを考える機会を与えることを考えると、その意義は意外と重いものなのかもしれない。

そして、もう一つ期待することは、これら古典文学を現代日本語に移し替える作業に携わった比較的若い現代の小説家たちの作品に、どのような影響を与えていくかということだ。

言わば、現代日本文学という若干ぱさぱさした栄養のない畑に、肥沃な腐葉土を混ぜ合わせるような作業なのかもしれない。

編集者の池澤夏樹にその目論見があったことは間違いない。

2014年6月4日水曜日

日本文学全集/池澤夏樹個人編集 が出るらしいよ

池澤夏樹が、なんと、日本文学全集を編集することになったらしい。

http://www.kawade.co.jp/nihon_bungaku_zenshu/

収録作品を見ただけで、もうワクワクする。

いきなり、古事記で、しかも池澤夏樹が新訳?

それにとどまらず、伊勢物語、源氏物語を川上弘美、角田光代が新訳。
土佐日記、方丈記、徒然草を、堀江敏幸、高橋源一郎、内田樹が新訳。

しかも、さらにとどまらず、平家物語を古川日出男が新訳。
曾根崎心中をいとうせいこうが。
好色一代男を島田雅彦が。

たけくらべを川上未映子が。

思いっきり、異色な顔ぶれで、新訳のオンパレード(表現古?)

目次だけで判断するのは浅はかかも知れないが、これは、明らかに古典の復権を目論んだ企画である。

そういった古典の新訳は、谷崎が源氏物語を新訳したように、珍しいことではないけれど、あくまで作家個人として行われてきたことだと思う。

文学全集で、こんな試みをするなんて。

11月が第一回配本らしいが待ちきれない。

2014年6月2日月曜日

失われた時の海/ガルシア・マルケス

ガルシア・マルケスの短編の中でも、一際、幻想的な小説だ。

ある日、夜の海からバラの芳香が漂ってくる。
海では人が死ぬと、遺体を海に流すが、ときどき花束を海に浮かべていた。

バラの匂いを嗅いで、老人の妻は土の下に埋めてもらいたいため、生きたまま埋葬してほしいと夫に頼む。

しかし、老人の妻は亡くなり、花も供えられず、海に流される。

やがて、海からふたたびバラの香りが漂い、村にはたくさんの人がやって来た。
その中に、大金持ちのハーバード氏がいた。
彼は、お金を無心する人々に約束をさせ、それが実現できれば、希望するお金をあげ、そのうち、音楽や花火、軽業師を呼び寄せ、お祭りを主催した。

祭りは一週間続き、終わったとき、ハーバート氏は長い眠りに就く。

やがて、長い眠りからさめたハーバート氏は海の底に食べ物を探しに行く。

この海の底の風景が美しい。

ぼんやりと光る水没した村の前では、音楽堂の周りをメリーゴーランドに乗った男女が回っており、テラスには色鮮やかな花が咲き乱れている。

死者たちの海が始まると、大勢の死体が幾重にも層をなしていている。
最近亡くなった人たちの水域には、五十歳も若返った美しい老人の妻があった。

そして、海の底には、何千という海亀が石のように海底に貼り付いており、そのうちの一匹をひっくり返すと、眠った海亀はふわふわと上に昇っていく。

海から上がり、海亀をたらふく食べたハーバート氏は、こんなことを話す。

「われわれは現実をしっかり見据えなければならない。現実とはつまり、あの香りは二度と戻ってこないということなのだ」と。

涼しい夜風に吹かれ、遠くから聞こえる街の喧騒を潮騒のように感じ、物語を反芻すると、心が深く深く沈んでいくのが分かる。