2012年10月9日火曜日

黒い天使/アントニオ・タブッキ

一言で言うと、人は記憶に残った過去からは逃れられない ということだろうか。
短編小説集「黒い天使」は、タブッキにはめずらしく、どこか暗い影が漂う物語が集められている。

・ 何とは言えない何かによって運ばれる声

死んだ友人タデウスの声に導かれて、ピサの斜塔に登る。
主人公とタデウスの間に、イザベルという女性の不幸な出来事があったことが暗示されている。
(三人の関係は「レクイエム」にもちょっと出てくる)

・夜、海あるいは距離

黒いメルセデスに乗った秘密警察に、突然、拳銃を突きつけられ、暴力を振るわれる三人の友人とタデウス。車の窓から突然現れた口をパクパクさせる瀕死の太ったハタ(魚)は何を暗示しているのか。

・「ふるいにかけろ」

ファシズムの講演に来た女性(作家か批評家)が、線路が不通になり足止めを食う。
彼女は講演を棒に振り、食事の後、年配の年金生活者である男やもめをホテルに誘い、一緒に寝る。そして、彼女はベッドの中で少女時代の守護天使を見て、泣いている自分に気づく。

・ニューヨークの蝶の羽のはばたきは、北京に台風を起こすことができるのか?

秘密警察の青い服の紳士に、外国人領事の殺人の件で尋問される灰色の髪の男。
青い服の紳士は、自分の聞きたいことばだけを尋問で引き出していく。
灰色の髪の男が、最後に青い服の紳士に、尋問の理由を質問したときの答えが、この短編のタイトルになっている。
このタイトルは、地名が入れ替わっているが、カオス理論の「バタフライ効果」を指している。

・石のあいだを跳ねる鱒(ます)はあなたの人生をわたしに思い出させる

家政婦と暮らす年老いた詩人の男。彼は思い出の中のかつて恋人だった女性と会話をして暮らしていた。そんな詩人の家に、金髪の美人が訪問してくる。
詩人は、なぜか、その女性にマドリガルを捧げ、二十篇の詩を彼女のために書くと約束する。
(詩人は彼女と寝たかったのだろう。そんな気がする)

・新年

少年と「海底二万マイル」のノーティラス号のネモ艦長との不思議な会話。

ネモ艦長が案内する海底には、珊瑚の十字架があり、中央には父親の写真が飾られており、大きな牡蠣の貝殻の中には裸で身を横たえている母親がいる。

兎の解体、地下室の血を思わせる染み、母親に送りつけられてきた父親が沈んでいる湖のカワカマス(魚)。罠にかかった鼠の残酷な死。そして、その鼠を贈り物の箱に入れ、受取人に母の名前を書く少年。腐った魚に培養する「鼠らい菌」(結核菌)のメモ…
母親をどこかで憎んでいるような少年の感情。

優れた小説の特徴の一つは、人の込み入った感情を、その複雑さそのままに端折らずに正確に表現しているところにある。
これらの物語も、どこか掴みどころがない印象を与えながら、それでいて、こういう複雑な感情が過去のどこかに実在していたことを読者に感じさせる。

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