2012年10月29日月曜日

横しぐれ/丸谷才一

主人公は、年老いた元医師の父が、主人公がまだ少年のころに、四国 松山を旅したときの思い出話を聞く。

それは、父が友人の国語教師と二人で道後の茶店で休んでいたとき、話し上手で酒飲みの乞食坊主と出会い、酒代をたかられてしまったという話だ。

主人公は、その話の中で、乞食坊主が「横しぐれ」という言葉にしきりに感心していたということから、ひょっとすると、その乞食坊主は俳人の種田山頭火ではなかったのかということを思いつく。

国文学者である主人公は、父の死後も数年間、山頭火の句集や研究本を読み続け、知人の文学者と意見を交わしながら、執拗にその推論を追跡していく。

その追跡から浮かび上がってきたのは、
「横しぐれ」ということばに隠れていた別の意味 「死暮れ」 「横死(不慮の災難で死ぬこと)」 と、
山頭火が、その「横死」を好む日本文学の伝統に無意識に従い、死を求めて四国を旅していたのではないかという推測、そして、主人公が偶然出会った元教師から聞き出した父の思いがけない過去だった。

物語では、「横しぐれ」というキーワードから、日本文学史を平安・鎌倉まで遡り、知的な推論を組み立てようとする主人公の目の前に、呪術的な御霊信仰や山頭火と日本浪漫派(右翼的)の関係という前近代的で無気味な影が立ち現れる。
そして、主人公が無意識に記憶から葬り去った少年の頃の記憶を辿っていく行為がそれに重なってくる。

日本文学史をイギリス文学を学んだ批評眼で理解しつつも、その特殊性をどちらかというと嫌悪し、そこから抜け出そうとしてきた丸谷才一が、その嫌悪を逆手にとり、これまた、丸谷氏の文学観に縁のない山頭火というちょっと得体の知れない俳人の影を登場人物として用い、推理小説仕立ての物語にしてしまうという大胆な発想にまず驚かされる。

こんな知的冒険心にあふれた器の大きい小説は丸谷才一にしか書けないだろう。

2012年10月28日日曜日

街男 街女/Original Love


音楽が耳に入ってこない時期と入ってくる時期というのがあるのだろうか。

Original Loveのアルバム「街男 街女」もいい歌がいくつか収められていて、何故、あの時には、この歌が心に響いてこなかったのだろうと、しみじみ思った。



「鍵、イリュージョン」もいい歌ですね。Youtubeにはなかったので、歌詞の一部だけ抜粋
どんなマジックの種が破られても
予感の炎が消えてしまっても
ありもしないものを見ずにはいられない力を 
誰にも渡しちゃいけないものが君の中にあるんじゃないか
気持ちがあるなら 自分で歩いた旅の先に奇跡がある
それはきっと君の中にあるんじゃないか
気持ちがあるなら 自分で歩いた旅の先に奇跡がある
もっと もっと 心の中であの人のことを好きになろう
もっと もっと 涙が止まらない程 あの人を愛そう

2012年10月27日土曜日

夢のなかの夢/アントニオ・タブッキ

タブッキの小説には、こういう手法や見方で小説が書けるのかと思わせるようなユニークな趣向のものが多いが、この本もその一つだ。

本の冒頭、小さな覚え書があり、そこには、
「自分の愛する芸術家たちの夢を知りたいという思いに幾度となく駆られてきた」とある。

そう、この本は、タブッキの好きな芸術家たちが見る夢を夢想して描いた物語だ。

登場する芸術家は、私が知っていた名前だけを挙げても、画家のカラヴァッジョとロートレック、小説家のスティーブンソン(「宝島」が有名)とチェーホフ、詩人のランボーとペソア、音楽家のドビュッシー、心理学者のフロイト博士と、幅広い(全体で二十人)。

巻末には、親切にも「この書物のなかで夢見る人々」と題し、登場する芸術家たちの簡単な説明書きがある。

たとえば、フランソワ・ヴィヨン 生年は一四三一年だが、…無軌道で荒んだ人生を送る。喧嘩がもとで司祭を殺害し、徒党を組んで窃盗や強盗を繰り返し、死刑を言い渡されるが、のちに流刑…かれのバラードでは、慣れ親しんだならず者の世界の隠語がかがやいている…とある。

なぜ、こんな人物を取り上げたのだろうと思ったが、実は、この芸術家の見る夢が一番怖く幻想的だった。(夏目漱石の夢十夜 第三夜のような内容です)

ほかにも、足が長くなり、女と抱き合う夢をみるロートレックの話や、片足を失ったランボーがパリを目指して旅する話、旅のなかで異名のもう一人の自分を見つけ、勝利の日を向かえたペソアの話、患者の女性になりきって男に抱かれてしまったフロイト博士の話など、それぞれの芸術家にちなんだエピソードも盛り込まれており、とても面白い。

2012年10月25日木曜日

弔辞は小さな伝記

俳優の大滝秀治さんのお別れの会で、脚本家の倉本聰氏が読み上げていた弔辞が、とても良かった。

故人の人柄と面影がくっきりと浮かんでくるような微笑ましいエピソードが述べられているところも勿論、若い頃、名優だった宇野重吉から「壊れたハーモニカのようだ」と酷評された声の青年が、常識はずれなまでに役作りに打ち込み、名優に成長していった姿が「あなたはそのハーモニカでいくつもの素敵なブルースを僕らのために奏でてくださった」という言葉に象徴されていて、故人の小さな伝記を読んだような気分になった。

優れた弔辞というのは、そういうものなのかもしれない。

最近亡くなった丸谷才一氏も挨拶の名人で、最近も読売新聞で、作家の辻原登が文学賞を受賞した際の挨拶で、丸谷氏に怒られた思い出話が述べられていたが、丸谷氏の著書「挨拶はたいへんだ」に収められている親友 辻静雄氏(フランス料理研究家)の葬儀での弔辞も、「小さな伝記」の優れた代表例かもしれない。

この弔辞は、辻静雄氏の人生を振り返り、辻氏が行ってきた仕事とその功績を時代背景を交えながらわかりやすく説明しつつ、批評家らしく、戦後日本の知識人の生き方の代表だったと分析しており、葬儀で辻静雄氏を知らない人でも、この人はこういう人だったのだと十分認識できるような内容になっている。

その一方で、抑制はしながらも親しい友人を失った悲しみがひしと伝わってくるところも素晴らしい。
ちょっと、引用してみます。
…しかしまあ、などと自分に言い聞かせたくなる。そう言い聞かせようとして、わたしはあの日以来、努めて来ました。しかし、あの立派な男、優しくて快活で魅力に富む知識人がもういないことの寂しさをどうしよう。 
あるとき、こういうことがありました。わたしが読み終えたばかりのイギリスの新刊書のことを話題にすると、ちょうどあなたもイギリス人の友達から貰ったとかでその本を読んでいた。それであれこれと読後感を語り合い、その本に出て来るホテルのことから一転してロンドンのホテルの朝食について話をした。 
今後わたしは、あんなふうにして閑談を楽しむ友達を持つことはできないでしょう。寂しい。

2012年10月19日金曜日

マイトレイ/エリアーデ


宗教学者が片手間に書いたものとは思えないほど、第一級の恋愛小説に仕上がっている。

インドに派遣された技術士のルーマニアの青年 アランと、 寄宿先である青年のインド人の上司の娘 マイトレイとの許されない恋。

アランがマイトレイと同じ家で生活するうちに、互いに少しずつ惹かれていき、罪だと感じながらも、抑えきれずに接触を深くしていく様子が、「エリアーデの日記」にみられるような緻密で繊細な文章で綴られており、読んでいて息苦しくなりそうなほど、官能的で濃厚な恋愛小説だ。

障害が大きければ大きいほど、タブーであればあるほど、恋は熱くなるという典型を描いているのだが、ぐいぐい引きずり込むような力があり、一気に読みきってしまった。

物語は、半分は実話に基づいており、エリアーデがインドに留学していた際に愛したマイトレイも実在の人物である。

そう思うと、物語の中で日記調に描かれている二人の恋の様子は、当時、エリアーデが書き留めた日記から引き抜かれたものに基づいているかもしれず、よりリアルな感じを受ける。

エリアーデというひどく内省的な男にとって、恋という化学反応により自分がどういう精神状態に陥るのかということは大きな関心事だったに違いない。

マイトレイにとっても、エリアーデとの恋愛は大きな事件だったようで、父親から、エリアーデが彼女を裏切って逃げ出したと説明され諦めて別の男と結婚したが、真実は、父親に追放されて、やむなく去ったことを 四十二年後に知ったことで異常心理に陥り、当時の恋愛の回想記「愛は死なず」を書かずにはいられなかった。

物語に出てくるマイトレイもそうだが、四十年の歳月を経てもなお思いが消えなかった実在のマイトレイにも、恋愛には、こんなにも強い力があるのだなと思うと、ちょっと怖い感じを受けた。


2012年10月17日水曜日

スヌーク/海老沢泰久

ビリヤードというゲームは、男の楽しむゲームという印象が強い。

学生の頃、暇な土曜日の夜は、よく、ビリヤード場に行って玉を突いていたが、女の子連れはあまりなく、たまに見かけても、上手いと感じさせる場面はついぞ見なかったような気がする。

その理由のひとつは、ビリヤードというゲームの性質が、勝とうと思うならば、徹頭徹尾、冷静にプレーし、ミスをしないことが求められることにあるのだと思う。

社会人になってからも、まだ、たまにビリヤード場に行っていた頃、海老沢泰久の短編小説「スヌーク」を読んで以来、ビリヤードというと、この作品のことが頭を過ぎるようになってしまった。

「スヌーク」という作品は、スヌーカーというあまり聞きなれない種類のゲームで戦う中年男のプレーヤーを描いた作品だ。

太っていて、髪の毛もうすくなりかけている主人公の村田伸郎は、四十七歳のビリヤード選手だ。
大会でもシード選手になれず、同じ年の友人といても、話すことがなくなってしまい黙ってぼんやりと過ごしてしまう、意味もなく薄ら笑いの表情が浮かんでしまう、そんなさえない中年男だ。

彼は、一回戦で、昨年チャンピオンになった十九歳の若い魅力的な笑顔の第一シードの選手と戦うことになる。

村田伸郎は、偶然、ビリヤード場で知り合い親しくなった少年に試合のチケットをプレゼントし、圧倒的にチャンピオンに視線が集まる会場で、スヌーカーのゲームを始める。

第三フレーム(ゲーム)まで、チャンピオンが圧勝し、第四フレームは接戦の末、村田伸郎が勝つ。
彼の勝因は、題名でもある「スヌーク」(狙い玉をポケットに落とすのではなく、相手が狙い球に手球を当てづらくする位置に手玉を移動する防御的なプレー)をして無理をせず、相手のミスを誘うことができたからだ。

このスヌーカーという競技は、勝つためには、攻撃より防御に重点が置かれているということが、ビリヤードを知らない読者にも分かるように、海老沢泰久の文章は二人の緊迫したプレーの応酬を描いていく。

十九歳のチャンピオンは「スヌーク」をせずに狙い玉を落とすことにこだわり、ミスを重ね、主人公の老獪なプレーに次第に冷静さを失い、ゲームを落としていく。

主人公は観客の敵意に囲まれながら、意味もなく薄ら笑いの表情を浮かべる自分を、醜い四十七歳の中年男だと感じ、勝った後も招待した少年に会う気分になれず、会場を立ち去ろうとする。

ビリヤードというゲームの残酷さと中年男の悲哀が見事に描かれた海老沢泰久の佳品だと思う。

☆おまけ
http://nicoviewer.net/sm7526738

2012年10月16日火曜日

批評家の仕事

丸谷才一の「遊び時間」という書評集?を読み返していたら、ルイス・ブニュエルの「小間使の日記」に関する批評が載っていた。

実は、この映画、2ヶ月前ほどに、DVDで観たのだが、ブニュエルの映画にしては、あまり面白くないなという印象だった。
題材が暗い(幼女強姦殺人)し、ジャンヌ・モロー 演じる小間使いセレスティーヌが、自白させようと、あるいは殺人の証拠を探すために、殺人犯である右翼の下男ジョゼフと寝て、結婚の約束までしてしまうという物語に、真実味を感じられなかったからだ。

丸谷氏は、この作品が、サルトルの中編小説「一指導者の幼年時代」の影響下に作られたのではないかと推論し、ミルボーの原作におけるブルジョア道徳への憎しみと右翼への批判を、現代人の感覚に合うように清新な趣のものにしたとして、一定の評価をしつつも、
映画最後のシーン(暗い天を刺す唐突な稲妻)について、

「ああいう意味ありげな思わせぶりで末尾をしめくくるしかないところに、この映画全体の脆弱さが、 問題映画的な弱さが よく示されている」と評している。

その一例として、ミルボーの原作では、セレスティーヌが幼女強姦殺人犯であるらしいジョゼフと結婚し、軍人相手の酒場で、セレスティーヌは人気者となるが、水兵長にも機関兵にも目も向けず、ジョゼフに首ったけであるという恐ろしい内容になっている。「その停滞の詩情の恐ろしさ」に対抗するだけのものを、この映画は創造しているのか?という、これまた恐ろしく厳しい批評をしている。

丸谷氏は、この批評の中で、ブニュエルの他の作品「アンダルシアの犬」や、ジャン・ルノワールの「小間使の日記」を見ていないこと(当時はビデオなどなかった)、ミルボーの原作しか読んでいないことを悔い、

批評家の仕事はその作品を芸術の歴史のなかに正しく位置づけることにある。
そのためには、その作品と他の芸術作品との関係を関連づけることが手がかりとなるだろうし、
手がかりの第一は彼のこれまでの作品との関係、
第二は彼の師や敵(師が敵である場合は非常に多いだろう)の作品との関係であるに相違ない、

と述べている。

余技である映画批評にも手を抜こうとしなかった若い頃の丸谷氏の批評家の姿勢を感じることができて、懐かしかった。

2012年10月14日日曜日

丸谷才一さんの死

丸谷 才一氏が亡くなったという記事を読んで、やはり悲しかった。
年齢も高齢で、最近のエッセイのあとがきでも入院の話が書いてあったので、若干心配はしていたのだが。

私にとって、丸谷才一氏は、理想的な国語の先生だった。
この国語の先生を知ったのは、村上春樹の小エッセイの文章だったと思うが、氏の「日本語のために」、「桜もさよならも日本語」、「文章読本」を読んで、初めて、自分の中に、よい日本語の文章とそうでない文章の見分けの基準ができたような気がする。

丸谷氏は、小学校の国語の教科書も、大学受験の現代文の問題も批判した。
名文を読ませよう、読書感想文を書かせるな、小林秀雄の文章は問題に出すな等、それは今までの大人しい文学者の域を超えた発言であり、文学に関心がない人も知らず知らず日本語に興味をもたせてしまうほど、面白い内容だった。

「挨拶はむづかしい」という氏の様々なパーティー、冠婚葬祭でのスピーチ集も、それは同様のことだと思う。

そして、丸谷国語教室を卒業した後も、丸谷氏は、私にとって、あらゆる文学の入口、道先案内人だった。

丸谷才一の書評を読まなければ、永井荷風を、谷崎潤一郎を、佐藤春夫を、石川淳を、林達夫を、大岡昇平を、吉田健一を、山崎正和を、大野晋を、田村隆一を、倉橋由美子を、石牟礼道子を、須賀敦子を、池澤夏樹を、海老沢泰久を、レイモンド・チャンドラーを、アントニー・バージェスを、ジェイムス・ジョイスを、グレアム・グリーンを読もうという気にはならなかっただろう。

自分が読んでる本が、昔の丸谷氏の書評で取り上げられていて、ああ、どうして、この時に読まなかったのだろうと思う作家も多い。モラヴィアもそうだし、今はまっているエリアーデも、「二十世紀を読む」で取り上げられていた。

寡作ではあったが、小説も面白いものが多い。
丸谷氏の作品の特徴は、日本独特の私小説的な、自伝的で、真面目で、じめじめした湿った文章を嫌い、物語がしっかりと構築され、理知的でありながら、ユーモアもあり、エロティックで、社会性に富んでいたということだ。
この氏の文学的趣味は、書評で取り上げていた上記の文学者たちにも濃く現れている。

「笹まくら」「横しぐれ」「樹影譚」「たった一人の反乱」は、たぶん、すべて何らかの文学賞を受賞していると思うが、特に好きな作品です。

書けば書くほど、喪失感が大きなものとなって感じられてしまう。
たとえていうと、日本文学界にぽっかりと穴が開いたような感じだ。

あらためて、今までの感謝の念を述べるとともに、その死を深く悲しみます。
今まで本当にありがとう。
さようなら。丸谷さん。

2012年10月13日土曜日

ダマセーノ・モンテイロの失われた首/アントニオ・タブッキ

「供述によるとペレイラは」の次に発表されたタブッキの作品で、あまり期待はしていなかったのだが、読んでみて予想以上に面白かった。

主人公フェルミーノは、リスボンの二流新聞社に勤める新聞記者で、仕事のかたわら、ポルトガルの戦後文学を研究している。
休暇明け、上司から、首が切断された死体が発見された事件の取材を命ぜられ、事件がおきたポルトの街に向かう。

死体を発見した年老いたジプシー、マノーロ、主人公が宿泊するペンションを経営する上品な婦人で、事件の取材に必要な人的コネクションを持つドナ・ローザ、性格に一癖ある裕福で博識な老弁護士ドン・フェルナンド。

登場人物の輪郭が鮮明で、あらすじもはっきりとしている。この事件は、実際にポルトガルで起きた首なし事件をモチーフとしており、国家警備隊(ポルトガルの警察組織)、拷問、麻薬、ジプシーといった社会問題を取り上げており、タブッキの得意とする幻想的な小説とは一味違っている。

それでも、レストランや食堂車のウェイターとの何気ないやりとりや、ドン・フェルナンドが時刻表で、複雑な鉄道の乗り継ぎを記憶し、想像上のヨーロッパの鉄道旅行を自由自在に話す場面、カメレオンをフェルナンド・ペソアみたいだと話す少女。
こういったタブッキらしいシーンを、所々、感じられるところもおもしろい。

2012年10月9日火曜日

黒い天使/アントニオ・タブッキ

一言で言うと、人は記憶に残った過去からは逃れられない ということだろうか。
短編小説集「黒い天使」は、タブッキにはめずらしく、どこか暗い影が漂う物語が集められている。

・ 何とは言えない何かによって運ばれる声

死んだ友人タデウスの声に導かれて、ピサの斜塔に登る。
主人公とタデウスの間に、イザベルという女性の不幸な出来事があったことが暗示されている。
(三人の関係は「レクイエム」にもちょっと出てくる)

・夜、海あるいは距離

黒いメルセデスに乗った秘密警察に、突然、拳銃を突きつけられ、暴力を振るわれる三人の友人とタデウス。車の窓から突然現れた口をパクパクさせる瀕死の太ったハタ(魚)は何を暗示しているのか。

・「ふるいにかけろ」

ファシズムの講演に来た女性(作家か批評家)が、線路が不通になり足止めを食う。
彼女は講演を棒に振り、食事の後、年配の年金生活者である男やもめをホテルに誘い、一緒に寝る。そして、彼女はベッドの中で少女時代の守護天使を見て、泣いている自分に気づく。

・ニューヨークの蝶の羽のはばたきは、北京に台風を起こすことができるのか?

秘密警察の青い服の紳士に、外国人領事の殺人の件で尋問される灰色の髪の男。
青い服の紳士は、自分の聞きたいことばだけを尋問で引き出していく。
灰色の髪の男が、最後に青い服の紳士に、尋問の理由を質問したときの答えが、この短編のタイトルになっている。
このタイトルは、地名が入れ替わっているが、カオス理論の「バタフライ効果」を指している。

・石のあいだを跳ねる鱒(ます)はあなたの人生をわたしに思い出させる

家政婦と暮らす年老いた詩人の男。彼は思い出の中のかつて恋人だった女性と会話をして暮らしていた。そんな詩人の家に、金髪の美人が訪問してくる。
詩人は、なぜか、その女性にマドリガルを捧げ、二十篇の詩を彼女のために書くと約束する。
(詩人は彼女と寝たかったのだろう。そんな気がする)

・新年

少年と「海底二万マイル」のノーティラス号のネモ艦長との不思議な会話。

ネモ艦長が案内する海底には、珊瑚の十字架があり、中央には父親の写真が飾られており、大きな牡蠣の貝殻の中には裸で身を横たえている母親がいる。

兎の解体、地下室の血を思わせる染み、母親に送りつけられてきた父親が沈んでいる湖のカワカマス(魚)。罠にかかった鼠の残酷な死。そして、その鼠を贈り物の箱に入れ、受取人に母の名前を書く少年。腐った魚に培養する「鼠らい菌」(結核菌)のメモ…
母親をどこかで憎んでいるような少年の感情。

優れた小説の特徴の一つは、人の込み入った感情を、その複雑さそのままに端折らずに正確に表現しているところにある。
これらの物語も、どこか掴みどころがない印象を与えながら、それでいて、こういう複雑な感情が過去のどこかに実在していたことを読者に感じさせる。

2012年10月8日月曜日

NHKスペシャル/除染 そして、イグネは切り倒された

福島県南相馬市の除染(放射性物質の除去)の状況を、かなり詳しく取り上げていた番組。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1007/

事故から1年6ヶ月を過ぎた今年9月、公共施設を除き、ようやく一部の民家で除染作業が開始したという状況らしい。

何故、除染作業が進まないのか。

一つは、除染をすれば、大量の放射性廃棄物が発生するが、その仮置き場が付近の住民の反対で設置できないという問題がある。
しかし、この付近の住民の方の心配は、中間貯蔵施設、最終処分場の当てさえ決まらない現状、一度置いたら、そこが最終処分場になってしまうのではないかという心配に起因するところが大きい。

二つ目は、地元の人たちが、子供や家族の安全を考え、徹底した除染作業を行ってほしいと国に要求しても、国の試算を超えた費用が発生してしまうため、環境省が策定した除染作業のガイドラインを超えた作業については、OKを出さないことだ。

国としては、除染作業の費用は全て東京電力に請求するつもりらしいが、実質的に負担できない部分は税金でまかなうことになるため、今から、その防御腺を張っておこうという考えらしい。

番組で取り上げていたのは、例えば、屋根の除線作業。高圧洗浄機で洗い流す方法では、瓦の材質によっては十分な除染の効果があげられず、むしろ、紙タオルで瓦をふき取る方法が効果的であることが環境省でも分かっている状況らしいが、環境省が定める除染作業のガイドラインは見直すつもりはないらしい。

理由は費用がかかりすぎてしまうこと。
しかし、環境省策定の除染作業ガイドラインには、他にも問題があって、森林の除染の方法として、落ち葉や枝葉の除去が定められているらしいが、すでに放射性物質が雨で落ち葉や枝葉から洗い落とされてしまい、土に放射性物質が移動している現状が報告されていた。
作業をしても十分な除染の効果が得られず、逆に土を覆いかぶせていた遮蔽物がなくなったことで、作業後、線量が高くなってしまったところもあるらしい。

番組では、東大アイソトープ研究所の児玉さんが、情報が古い見直しが利かないガイドラインに準拠することなく、除染作業の判断は現地の判断に任せ、現場の邪魔をしないことが必要とのコメントも紹介されていた。

お子さんがいる一家では、少しでも線量を下げるため、慈しんできた庭木を伐採し、阿武隈山脈から吹き降ろす強風から家を守る「イグネ」と呼ばれる屋敷森をも切り倒していた。
しかし、その伐採にかかる費用を東電に請求しても、環境省のガイドラインには書いてない対応であることを理由に拒否したらしい。

「イグネ」を切り倒した家のご主人が、国や東電の人は、一度、福島に泊まりにくるといい。それも、家族の人たちを連れて泊まりにくるといいという趣旨のことを言っていたが、そう言いたくもなる。

こと、この問題に関しては、関係者・国民一人一人がそういう想像力を働かして自分の身になって考えないと、福島再生などというスローガンは選挙対策の民主党のマニフェスト同様としか受け取られず、地元の人の不信は強まるばかりだろう。

2012年10月7日日曜日

「妖精たちの夜」 ルーマニアとエリアーデ

前回、取り上げた「妖精たちの夜(II)」には、翻訳者の住谷春也氏が「ミルチャ・エリアーデと妖精たちの間」と題して、四十ページを超える充実した内容のあとがきを書いているのだが、これを読んで、あらためてエリアーデの母国であるルーマニアの成り立ちとその特殊性、そして、両世界大戦を通して非ルーマニア的体制が確立されていく母国の運命にエリアーデの人生が大きく左右されていたことを知った。

…われわれには、それほど歴史を愛するいわれはない。どうして愛したりするものか?われわれにとって、十世紀の間、歴史とは蛮族の侵入のことだった。次の五世紀はオスマントルコの恐怖だった。そして今は、これから何世紀になるか知らないが、歴史とはソヴィエト・ロシアのことになるだろう…

物語中、主人公の親友である哲学教師が秘密警察への供述で述べた言葉どおり、ルーマニアの歴史は、ほとんど常に異民族の侵入と列強の領土争いに巻き込まれていたことが分かる。

ルーマニアの歴史

そして、両世界大戦時には、西欧国家の一員であるという意識のもと、イギリス・フランス・アメリカ民主主義陣営による救済を期待していたが、戦後、結果として見捨てられ、1989年のルーマニア革命(チャウチェスクの処刑が印象的)まで、以後四十年もの間、ソヴィエト・ロシアが強要した社会主義の国家となった。

「妖精たちの夜」は、まさに第二次世界大戦が勃発する暗い影の時期である1936年から、共産党一党独裁の社会主義国家が確立される1948年までの時代背景の物語であり、こういった歴史背景を意識しないと、物語の理解が追いつかないところがある。

ルーマニアは日独伊三国同盟の枢軸にも加盟したので、第二次世界大戦の敗戦国という点では、日本と同じ立場であったが、日本がアメリカのGHQによる占領状態はわずか数年だけだったことや、戦後の民主化で経済発展を遂げ繁栄を迎えたことと比較すると、この国の悲劇に、日本人は鈍感になってしまうところがあるのではないか。

また、「妖精たちの夜」の主人公(経済官僚)が物語の中でたどる遍歴が、エリアーデの実体験がそのまま描かれているという点も興味深い。

なかでも、恐ろしいのは、エリアーデが、レジオナール(ルーマニア民族主義運動)に関係があると疑われ、収容所に入ったことをきっかけに大学の職を失い、路頭に迷ったことでロンドンに派遣されることになるが、もし、その時に国外に出るチャンスがなかったとすると、社会主義国家のもと、収容所に移送され刑務所で獄死していたかもしれないという事実だ。
(エリアーデの僚友たちの多くは、その運命を辿った)
そのような運命になっていれば、私たちはエリアーデの著書の多くを読むことはできなかっただろう。

この物語「妖精たちの夜」には、様々な偶然(主人公と作家が瓜二つ、主人公と運命の女性との出会い等)と、運・不運(作家が主人公に間違われ射殺される、親友の哲学教師が警察に拘束・拷問され死を迎える等)が描かれている。

物語中、歴史、時間、運命という単語がゴシックで強調されている文章がいくつか出てくるが、エリアーデが、あるいはルーマニアの人々が体験した過酷な出来事を思い浮かべると、その言葉に対する思いの重さが、わずかながら推測することができる。

上記のような視点であらためて見直すと、この物語は、単なる恋愛小説に留まらず、歴史小説、政治小説、風俗小説、感情小説、神話小説、宗教小説…という幅広い視点から楽しめる複合的な魅力を持つ小説であることが分かる。

それは、著者にとっても同じ思いであったらしい。
エリアーデは、この物語について、こんな言葉を残している。
「『妖精たちの夜』を読み直したところで告白するのだが、多数のエピソードの隠された意味を私は小説を書き終えたあとで発見した。その意味で、この本は私にとって 《読者にとってもそうであることを希望するけれど》 これは一個の知の道具である。 
一九三六年の<妖精たちの夜>に<森で>始まって、一九四八年にスイス国境近くの、これも一つの森で完結する長い円環の旅は、私に人間実存のいくつかの意味を明かしてくれた。それらは小説を書き終えるまで私が知らなかったものだった。ないしは、ただ近似的にしか知らず、その真の価値を理解していなかったものであった」

2012年10月6日土曜日

妖精たちの夜(II)/エリアーデ

森の中で出会った女性と運命的な恋をする。
二人とも完全な両思い。
でも、その時、すでに男には妻と子供がいた。

男はその女性と妻を同時に愛することを望むが上手くいかず、女性と別れ、妻を十分に愛してあげることもできないまま、戦争で妻と子を失う。

それから男は死んだように暮らしていたが、周りの人々に諭され、再び、別れた運命の女性を探す。そして、出会ったときから十二年後、再び、森の中で女性に再会する。

女性は既に別の男性と結婚していたが、男を見て動揺する。初めは拒否するような言葉を言い放つが、男への思いは隠せない。
そして、車の運転中、お互いに同じ思い(あなただけを愛することが運命づけられていた)を告白し、男が寄り添い女性が目を合わせたところで物語は終わる(事故に遭い二人は死んだかのようにも思える)。

妖精たちの夜は、第二次世界大戦をはさんで過酷な運命にさらされるルーマニアのさまざまな知識人たちを描いた物語だが、上記のあらすじでわかるように、その骨格には悲劇的な恋愛がある。

その昔、眉村卓のショート・ショートで、お互いにとって100%の相手と出会った男女が、触れあった瞬間にこの世から消えてしまう物語を読んだのを記憶しているが、あるいは、本当の理想の恋愛とは、それだけで十分なものなのかもしれない。

2012年10月3日水曜日

ぐずぐずの理由/鷲田清一

タイトルからして、鷲田清一らしい。

「ぎりぎり」「ぐずぐず」「ふわふわ」「なよなよ」「ゆらゆら」「ねちゃねちゃ」…

これらの言葉は、一般的にオノマトペ(擬態語)と呼ばれるが、本書は語感が鋭い著者らしいオノマトペの考察論になっている。

こんなテーマは国語学者の大野晋も取り上げなかったし、まして、文学者に至ってはどちらかというと邪道、下品と扱われるジャンルの言葉だから誰も書いたことがないだろう。

しかし、そのオノマトペについて、著者は多田道太郎の文章も引いて、そこには「深い闇」があると指摘する。
視覚中心の文明がすごい勢いですすむと、他の感覚の抑圧が深まり、そして抑圧されっぱなしだったそれらの感覚は、あるとき、歴史の皮肉が働いて、いっせいに視覚への反訳をもとめ、いわば反逆をはじめる。手ざわりを視覚化して素材感を出すというようにして…。感覚的、表層的なものが、かえってこれらの社会では、もっと深いものの表現であるという逆説が成立する。なぜなら、深い闇のなかにあったものが、反訳をもとめて浮かびあがるその場所は、理念の体系ではなく、感覚の表層なのだから。
そして、著者は、オノマトペこそ、わたしたちのなかの「深い闇」が「反訳をもとめて浮かびあがるその場所」ではないのか?
ぴたりとくる表現が見あたらずいらいらしているときのみならず、…肌で感じる「時代の空気」や「現在という時代の不安」にいたるまで、オノマトペというこの言語表現は、つねに身体的に感応し、音としてその感触を編みなおそうとしている、意味を超えた<言葉>の力の源泉、と説明している。

さまざまなオノマトペを取り上げながら、著者は発音するときの口の動かし方から、アクセント、リズム、類似する言葉と語源、心理分析に至るまで幅広く考察をめぐらしていくが、引用する文章も素晴らしい。
たとえば、吃音(どもること)に関する斎藤環の言葉。
吃音は、これは経験のない人にはわかりにくいと思うけど、発したい言葉を、舌が拒否するんです。発音できずに終わってしまった言葉が、言霊のようにいつまでも心の中にあって、それにいつまでも引きずられる。…吃音というのは、言葉を伝えようとして、間違って、言葉じゃなく肉体が伝わってしまった、という状態なんです。肉体と言葉が乖離している。
一粒で二度おいしい、 そんな思いがする本です。

2012年10月1日月曜日

幻魔大戦の幻夢

昨日、BSで「幻魔大戦」のアニメ映画を放映していた。
おそらく、中学生の時に映画館で見て以来だったので懐かしかった。

当時としては最新のアニメ映画だったのかもしれないが、今見るとさすがに古さは否めない。
また、ストーリーとか、人物の描き方も荒いし、かなり欠点が目立っていた。

しかし、それでも物語の結末が明確に提示されている点で、小説版の「幻魔大戦」より、ある意味マシではないかと思ったりした。

私も中学生の時に角川文庫の小説版「幻魔大戦」を読んでしまい、1巻から3巻までを読んで大きく期待を膨らませ、20巻まで読んで幻滅してしまった読者の一人である。

平井和正の小説は、レイモンドチャンドラーのフィリップ・マーロウを思わせるウルフガイシリーズも好きで、私は自分で言うのも何だが、かなり熱心な読者であった。

なぜ、主人公の東丈に、救世主的な、新興宗教の教祖的な役割をおっかぶせてしまったのか、返す返すも悔やまれる。
そうやって、どんどん主人公を神格化してしまったせいで、人間的な魅力が失われてしまい、神隠しのように物語途中で主人公を消失させるしかなかったのかもしれない。

その結果、物語の魅力は大きく失われ、幻魔大戦 → ハルマゲドン → 中途半端に終了。

真幻魔大戦 → 中途半端に終了という、ある意味、残念な結果に終わったのだろう。

*私の場合、ここでこの物語からは手を引きました。

この後、電子図書で続編が書かれているようなのですが、色々なネットの声を聞くと、これは読める物語ではないなという印象でした。

http://www.ebunko.ne.jp/genmasy.htm

でも、少年期に読んだ物語というのは、ある意味、強烈に記憶に残ってしまっていて、解消されないフラストレーションに困っている。

4巻から書き直して、物語を真夏のニューヨークで繰り広げられた幻魔との戦いから軸をずらさなければ、はるかに面白い物語が生まれるはずだったのでは?
そんな思いが消えなくてしょうがないのだ。